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岩手県大槌町から戻ってきました。
今回は僕の感じた大槌町の今をお伝えしたいと思います。
少々長くなりますが、2回に分けて記します。
おつきあいいただければ幸いです。

「大槌町」

岩手県大槌町は人口1万5千人ほど。
産業は漁業。大槌湾に面し、周辺は山に囲まれている。
主要な公的機関や商店、多くの住宅が、大槌湾に面した平地に集中しており、
その結果、津波による被害が甚大となってしまった。

町長以下、多くの町役場職員も犠牲となり、行政機能が麻痺。
盛岡などの県中心市街部から遠く離れていることも災いして、
しばらく孤立したような状況が続いた。

ニュース等では、
民宿の屋上に観光船「はまゆり」が乗り上げた映像が流され、
あるいはその映像によって、大槌町のことを知った方が多いのではないだろうか。

震災から3ヶ月が経とうとしている現在でも、
多くの方が避難所生活を余儀なくされている。

「6月4日」

始発の新幹線に乗り込み、新花巻駅へと向かう。
今回の被災地訪問の目的は、
炊き出しの手伝いと商工会の方々に富士十字プロジェクトの説明をすることだ。
思えば、仙台以北を訪れるのはこれが初めてである。

東京駅から新花巻駅までは3時間半以上。
新花巻から大槌町へは、さらに車で2時間半。
合計の移動時間はゆうに6時間を超える。

山間部では住宅がまばらに建つ。
その風景はのどかな週末そのもので、傍目からは震災を思わせるような要素がない。

森を抜けると、前方の視界に海が入りだす。
それを合図に、瓦礫、ひしゃげたガードレール、
奇妙な格好で横たわる車、倒れた電柱が沿道に散乱し始める。

完全に視界が開けると、
そこにはかつて「町」と呼ばれていた「何もない場所」が現れた。

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ここ数週間の間で瓦礫の撤去がずいぶんと進んだらしい。
道路はところどころでアスファルトがはがされていたが、
通行止めとなっているところは少ない。

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大槌町は中心部が波にさらわれたため、残っている建物は皆無に近い。
建物の3階部分まで波が来たので、ほとんどの建物は全壊した。
皮肉な事だが、そのせいで撤去作業がしやすいらしい。
となりの釜石市などは1階の床上浸水でとどまった建物が多く、
撤去に手間取っているようだ。

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避難所となっている安渡小学校に到着したのが午後の1時過ぎ。
すぐに夕飯の炊き出しの準備にとりかかる。

家庭科教室だった部屋を利用して大鍋にカレーをつくる。
メニューはカレーとサラダ。そして、崎陽軒のシュウマイ。
夕食の時間は4時半からだそうだ。

下ごしらえが早く終わったので、1時間ほど町を歩く。

ところどころで、水が溢れている。
これは排水、下水処理の能力が復旧していないことと、
地震によって地盤が下がり、海抜0m地帯が増えたことによる。
大潮の時などは、町のかなりの面積が水没するらしい。

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4時45分から炊き出しを開始。
ご飯は自衛隊が配給してくれる。
1時間も経たないうちに240食分の炊き出しを終了。

その後、本日の宿泊先である「伝承館」に向かう。

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伝承館は民間で運営されている避難所だ。
正式名称を「臼沢鹿子踊り保存会館伝承館」という。
古くから伝わる臼沢鹿子踊りの伝承のために、寄付金とうで整備されたそうだ。
伝統を守り伝えようとする、大槌の方々の心意気に感動する。

伝承館の外ではブルーシートで覆われた仮設の小屋があり、
そこで、お酒を片手に大槌の方々と交流をする。

これから大槌をどうやって復興させていくか、
という話が盛り上がり、貴重なお話をお伺いすることができた。

話は尽きず、深夜1時まで交流は続いた。

被災地の復興やまちづくりはあくまでも、現地の方々が主役でなくてはならない。
その土地に住み、
苦しい事、悲しい事、そして嬉しい事、楽しい事を体験してきた人でなくては、
思いのこもったまちづくりはできないと思う。

僕のような「外もの」ができることは、現地の方々が求めた時に、
適切な支援や助言をすることができるように準備をしておくこと以外にない。

現地の方々の熱意、意気込み。
それが原動力であり、始まりである。

熱のこもった議論に、復興への希望が見えるきがした。
そして、どんな形かは分からないが、
建築家として、そのお手伝いをしたいと心から思った。

続く

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