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「6月5日」

5時に起床。
この季節にしては空気が肌寒く、清涼感があるなと感じたが、
それもそのはずで、ここは横浜ではなく岩手なのだ。
方々で鳥の鳴き声がする中、伝承館の近くに流れる沢で顔を洗う。
冷たくて、新鮮な水だ。

6時に安渡小学校に到着し、そのまま朝食の準備。
メニューはシチューとクロワッサン。
クロワッサンはやはり自衛隊が配給してくれたものだ。

前日に下ごしらえを終えていたので、鍋に火を掛けるだけで準備は終わる。
7時から炊き出しを始め、8時には終了。

ここで、避難所の朝の様子について触れたい。

避難所では朝食が終わると、
避難所の対策本部、各部屋の代表者、警察官、医療班が校庭に集まり、
朝礼が行われる。
全体の流れは下記のようなもので、おそらく毎日のことなのだろうと推察する。

1、対策本部の代表者から、その日に予定されている行事などについて報告。
2、警察官から前日の行方不明者捜索の捜査結果の公表。
3、医療班から健康管理などに関する注意事項。
4、ラジオ体操第一。

震災後、どのくらいの時期からこのような朝礼が行われ始めたのかは分からないが、
町の多くが壊滅するという極限状態で、
また、240名を超える避難者がいるという状態で、
ここまで秩序立てることができているということに驚く。
もちろん、外側から見ているだけなので実情までは分からないが。

11時から予定されている商工会の方々との打合せを前に、小槌神社に立ち寄る。

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小槌神社は海岸からも近い位置にあるが、
幸いにして津波は鳥居の前で止まり、被害はなかった。
当日は山火事も発生し、四方を炎で包まれるが、
社殿に飛び火することは無かったという。

毎年、祭りの時に担がれる神輿を拝見させていただいた。
例年通りとはいかないまでも、
必ず祭りを行いたいと思うという話を宮司さんより伺い、
大槌町における祭りの重要性を垣間見ることができた。

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祭りは地域に根付く文化の最たるものだ。
現存する昔の神輿も見せていただいたが、この神輿が造られたのは元禄年間。
今から400年以上前の江戸時代、徳川第五代の治世である。
遠い過去から連綿と受け継がれてきたこの地の祭り。
是非、今年も行われてほしい。そして、この目で見てみたい。

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この日の一番の目的である、商工会のみなさんへのプレゼン。
81年会が進める「富士十字プロジェクト」を説明させていただいた。

「富士十字プロジェクト」は以下の4つの支援案からなる。

1、富士十字ファンド
2、81年会による共同雇用支援対策
3、大槌町で野球をしよう
4、ポケット仏壇
(それぞれの詳しい内容は次回のブログにゆずることにする)

結果としては非常に好印象で打合せを終える事ができた。

被災地では震災の直後から、
様々な企業、コンサルタントなどから復興案なるものを
それこそうんざりするくらいの数を見せられている。
しかもその多くが、現実的な観点からだいぶ離れた自己満足的な案だ。
いかにももっともそうな数字が書かれているが、大槌町の現実は勘案されていない。
おそらく、市町村名だけ変えて、
同じ内容のものをいたるところで使い回しているのだろう。
当然の帰結として、商工会の方々も警戒が強くなる。

そんな中で富士十字プロジェクトが笑顔を持って受け入れられ、
話に華が開いたことは、とても嬉しかった。
微力ではあるが、確実に現地のニーズに合致していることを確認できた。

この商工会へのプレゼンをもって、今回の岩手県大槌町の訪問は終わる。
行きと同様、2時間半をかけて新花巻駅まで向い、
そこから3時間半、新幹線に閉じ込められる。

今回の経験から感じた事、思った事。
そして富士十字プロジェクトの内容。
この2点は次回のブログで記させていただこうと思う。

続く

岩手県大槌町から戻ってきました。
今回は僕の感じた大槌町の今をお伝えしたいと思います。
少々長くなりますが、2回に分けて記します。
おつきあいいただければ幸いです。

「大槌町」

岩手県大槌町は人口1万5千人ほど。
産業は漁業。大槌湾に面し、周辺は山に囲まれている。
主要な公的機関や商店、多くの住宅が、大槌湾に面した平地に集中しており、
その結果、津波による被害が甚大となってしまった。

町長以下、多くの町役場職員も犠牲となり、行政機能が麻痺。
盛岡などの県中心市街部から遠く離れていることも災いして、
しばらく孤立したような状況が続いた。

ニュース等では、
民宿の屋上に観光船「はまゆり」が乗り上げた映像が流され、
あるいはその映像によって、大槌町のことを知った方が多いのではないだろうか。

震災から3ヶ月が経とうとしている現在でも、
多くの方が避難所生活を余儀なくされている。

「6月4日」

始発の新幹線に乗り込み、新花巻駅へと向かう。
今回の被災地訪問の目的は、
炊き出しの手伝いと商工会の方々に富士十字プロジェクトの説明をすることだ。
思えば、仙台以北を訪れるのはこれが初めてである。

東京駅から新花巻駅までは3時間半以上。
新花巻から大槌町へは、さらに車で2時間半。
合計の移動時間はゆうに6時間を超える。

山間部では住宅がまばらに建つ。
その風景はのどかな週末そのもので、傍目からは震災を思わせるような要素がない。

森を抜けると、前方の視界に海が入りだす。
それを合図に、瓦礫、ひしゃげたガードレール、
奇妙な格好で横たわる車、倒れた電柱が沿道に散乱し始める。

完全に視界が開けると、
そこにはかつて「町」と呼ばれていた「何もない場所」が現れた。

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ここ数週間の間で瓦礫の撤去がずいぶんと進んだらしい。
道路はところどころでアスファルトがはがされていたが、
通行止めとなっているところは少ない。

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大槌町は中心部が波にさらわれたため、残っている建物は皆無に近い。
建物の3階部分まで波が来たので、ほとんどの建物は全壊した。
皮肉な事だが、そのせいで撤去作業がしやすいらしい。
となりの釜石市などは1階の床上浸水でとどまった建物が多く、
撤去に手間取っているようだ。

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避難所となっている安渡小学校に到着したのが午後の1時過ぎ。
すぐに夕飯の炊き出しの準備にとりかかる。

家庭科教室だった部屋を利用して大鍋にカレーをつくる。
メニューはカレーとサラダ。そして、崎陽軒のシュウマイ。
夕食の時間は4時半からだそうだ。

下ごしらえが早く終わったので、1時間ほど町を歩く。

ところどころで、水が溢れている。
これは排水、下水処理の能力が復旧していないことと、
地震によって地盤が下がり、海抜0m地帯が増えたことによる。
大潮の時などは、町のかなりの面積が水没するらしい。

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4時45分から炊き出しを開始。
ご飯は自衛隊が配給してくれる。
1時間も経たないうちに240食分の炊き出しを終了。

その後、本日の宿泊先である「伝承館」に向かう。

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伝承館は民間で運営されている避難所だ。
正式名称を「臼沢鹿子踊り保存会館伝承館」という。
古くから伝わる臼沢鹿子踊りの伝承のために、寄付金とうで整備されたそうだ。
伝統を守り伝えようとする、大槌の方々の心意気に感動する。

伝承館の外ではブルーシートで覆われた仮設の小屋があり、
そこで、お酒を片手に大槌の方々と交流をする。

これから大槌をどうやって復興させていくか、
という話が盛り上がり、貴重なお話をお伺いすることができた。

話は尽きず、深夜1時まで交流は続いた。

被災地の復興やまちづくりはあくまでも、現地の方々が主役でなくてはならない。
その土地に住み、
苦しい事、悲しい事、そして嬉しい事、楽しい事を体験してきた人でなくては、
思いのこもったまちづくりはできないと思う。

僕のような「外もの」ができることは、現地の方々が求めた時に、
適切な支援や助言をすることができるように準備をしておくこと以外にない。

現地の方々の熱意、意気込み。
それが原動力であり、始まりである。

熱のこもった議論に、復興への希望が見えるきがした。
そして、どんな形かは分からないが、
建築家として、そのお手伝いをしたいと心から思った。

続く

今週末に、岩手県大槌町に行く。

目的は2つ。
1、避難所での炊き出し。
2、現地の商工会の方々と、富士十字プロジェクトについての意見交換

先々週のブログでも書いたのだけれど、
富士十字プロジェクトとは、81年会の仲間と進めている、
「81年会による社会貢献活動」である。

震災の前から少しずつ意見交換はしていたのだけれど、
3月11日を期に、話し合いのペースを早めていた。

今回、僕らが考えているのは、「被災地の同世代経営者に対する支援」だ。

これだけ多く、そして広範囲の被害をもたらした震災であるだけに、
全ての部分をカバーした支援をするのは現実的ではない。
だから、できるだけ的を絞って、必要としている方に必要とされる支援を届けたい。

そこで考えたのが、
81年会がやるからには、81年生まれの方々の支援をするのが良い。ということだ。
僕らと同様に、30歳前後で経営者として頑張っている方、
もしくはこれから独立に向けて動き出そうとしている方に対して、
微力ながら力になりたいと考えている。

具体的な支援の方法は現時点で3案考えている。
その3案を現地の方々との話し合いの中で、
より有効な、より効果的な形に育てていきたい。

今週末の意見交換を経たら、
このブログでも富士十字プロジェクトの支援の形をお伝えしようと思う。
そしてもし、ご賛同いただける方がいらっしゃったら、
一緒になって取り組んで行きたい。

長丁場になるであろう被災地の復興へは継続した、顔の見える支援が必要だ。
日本には「困った時はお互い様」という素晴らしい言葉がある。
この「困った時はお互い様」の精神で、僕らは支援に取り組んでいく。

あと3日で30歳になる。
いよいよだなという感じもするし、ちょっと残念な気もする。

「30にして立つ」という孔子さんの有名な言葉があるせいか、
なんとなく特別な、なんとなく区切り的な、
そんな雰囲気が「30歳」という言葉からは感じられる。

建築の世界では40代でも (時に50代でさえ) 若手だと言われる。
だけど、僕は30歳を迎えたそのときから「若さ」を武器にすることはやめる。

30歳なのだ。
世間一般的に見れば「若い」ではすまされない。

「秋山くんは若いのにしっかりしている」から
「秋山くんはさすがにしっかりしている」と思われるようにならなくてはならない。

この「若い」という枕詞を取り払ったその先にこそ、真の信頼があると思っている。

「若いのにすごい」というのは言葉を返せば、
「若くなかったら別にそうでもない」ということでもあるのだ。

これからはより一層、自らを律しなくてはならない。

そんな粛然とした思いとともに、30代というのが楽しみだという思いもある。

30代は仕事もプライベートもいろいろな出来事が起こる。
嬉しい事も、悲しい事も、不思議な事も、どんどん起こるだろう。

もちろん、10代だろうが20代だろうが、
そういったことは程度の差こそあれ起こっていたのだけれど、
30代というのは、
より「生々しい感触」を伴って感じられるのではないだろうかという気がするのだ。

はっきりとした根拠はどこにもない。
あるいは、すでに30代を経験されている方からすれば、
まったくそんなことはなかったよと言われるかもしれない。

ただ、なんとなくではあるのだけれど、僕はそう感じているのだ。

大きな期待と少々の不安を持って、
僕はいままさに、30代に手をかけようとしてる。

「東日本大震災復興支援シンポジウム」
”被災者とともに考える私たちにできる支援とは?”
”岩手県大槌町の被災者の方を交え、今後の支援のあり方についての意見交換”

というシンポジウムに参加をしてきた。

今回の震災を当事者として実際に体験なさった方々のお話は、
やはり鬼気迫るものがあった。
メモを取りながら聴いていたけれど、
話を聴いている時も、後でメモを見返してみた時も、
にわかには信じがたいことが、語られ、書かれてあった。

シンポジウムが終わった後、大槌町の方を交え、
「避難所での仮設風呂設置の計画」の打合せと
「富士十字プロジェクト」の説明を行わせていただく機会に恵まれた。

避難所になっている小学校には、まだ仮設風呂がなく、
入浴をするのにも困難な状況が続いていると言う。
2週間ほど前にその話をお聴きしたので、仮設風呂の設計をしてきた。

現地では下水の処理能力が著しく低下しているため、
実際に設営が可能かどうかは難しいところだけれど、
仮設住宅が完備されるより早く、下水処理能力が復旧すれば、
すぐにでも設営に赴きたいとおもっている。

今回、資料とともに、軸組模型を持って行ったのだけれど、
それを見て「持ち帰ってみんなに見せてあげたい」
とおっしゃっていただけた事が、本当に嬉しかった。
(荷物になるにも関わらず、本当にもって帰ってくださった)

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仮設風呂軸組模型写真1

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仮設風呂軸組模型写真2

そして「富士十字プロジェクト」

これは81年会の有志で『81年生まれの経営者による社会貢献』をするために、
話し合いを重ねてきたプロジェクトだ。

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富士十字プロジェクトロゴ

今回、ご説明させていただいた中で、
僕らの考えていた
「顔の見える、継続した支援の形」と「現地が求めている支援」
の間には大きな差違がなかったのがまずは嬉しかった。

そして、僕らの行動に対して、
心から感謝の言葉をかけてくれることに、感動した。

かならず、この富士十字プロジェクトは
やり遂げなくてはならないし、やり続けなくてはならないと、
思いを新たにすることができた。

富士十字プロジェクトの詳細を書き出すと、
かなりの量になってしまうので、
具体的なことに関しては、また追って書きたいと思う。

ただ、ひとつだけ最後に言える事は、
僕は建築設計という、心から好きで、やりがいのある仕事に巡り会えた。
建築の設計事務所は「飯が食えない、稼げない」の代名詞のようなものだけれど、
それでも、僕はこの仕事に誇りをもっているし、続けて行きたい。

確かに金銭的には決して恵まれているとは言えないけれど、
そんな仕事ができているということで、僕は本当に恵まれていると思う。

恵まれている者は、その分、その恵を社会に還元しなくてはならない。
そのためにも、僕は富士十字プロジェクトをやらなくてはならないということだ。