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半分を過ぎたあたりから徐々にペースを上げ始め、
残り1kmでぐっとピッチを上げる。
最後の200mは全力疾走で走り抜ける。

ジムで走っている時はだいたいそんなイメージで10kmを走っている。

ただ、いつも「全力疾走」という言葉が気にかかる。
僕は本当に「全力」で走っているのだろうか?

全ての力を使うということは、
その後は力がまったく残っていない状態になるはずだ。
そういうことであれば、僕は全力疾走をしていない。
走り終わった後に歩く力も残っている。
「全力」だと思っていても、実際は余力を残している。

これは何も運動だけではない。
仕事にも言える事だと思う。

自分は全力で仕事をしているかと自問すると、
そうじゃないんじゃないかと思ってしまう。

まだできるんじゃないか。
まだやれるんじゃないか。
そんな思いが沸き起こってくる。

そもそも全力というのはどのような状態で、
全力を出し切った後というのはどんな状態が待ち受けているんだろう。
そんなことを考えると、
全力というのが分からなくなってくるし、
全力というのが少し怖くなってきもする。

一体自分はどこまでやることができるのか。
答えはいつも分からない。

「全力を出せ!」
「自分の限界を決めるな!」
という言葉を見たり聞いたりするけれど、
本当に不思議な言葉だと思う。

だいたいにして、
自分の全力がどれほどのもので、
自分の限界がどれほどのものかもわからないのだから。

仕事への姿勢ひとつとっても、
日々課題が見つかるし、反省するところもある。

そんな毎日をおくっていると、
いつまでたっても全力じゃない気もするし、
限界なんてそもそも決めようがない。

本当に難しいことである。

結局のところ、僕にできる事と言えば、
毎日少しずつだけでもいいから、
着実に成長していくことだけなんだろうなと思う。

先月に完成した平成二十二年度版事務所小冊子ですが、
このひと月で多くの方にお問い合わせいただき、
多くの方からお褒めの言葉をいただきました。

本当にありがたいことだと、身にしみています。

こうして事務所を続けていくことができるのも、
みなさんのおかげなのだなと感謝せずにはおれません。
胸の心からあたたかな気持ちが広がっていきます。

秋山立花を立ち上げてからというもの、
人はひとりでは生きていけないということを
深く深く教えていただいています。

肉体的な成長は齢20も超えればとまってしまうかもしまうのかもしれませんが、
その気になれば、心の成長はいつまでたってもとどまるところを知りません。

思いやる心や助け合う心。
もっともっと心の成長をしたい。

秋山立花という若木にみなさんがかけてくださった水をしっかりと吸収して、
枝葉を力強く伸ばしていかなくてはなりません。

これからも秋山立花の「理念」を大切にしながら、
一歩一歩成長していきますので、
変わらぬお付き合いをしていただければ幸いです。

『贔屓』
1、気に入った者に特別に目をかけ、力を添えて助けること。後援すること。
2、後援者、パトロン。

事務所からぶらりと歩いて10分ほど。
ちいさなちいさなお弁当屋さんがある。

定休日の月曜日を除いて、時計の針が12時を回ると、
ぶらりぶらりとそのお弁当屋さんに向かうことになる。

500円玉さえ持っていけば、
栄養バランスがとれたおいしいお弁当を買えて、しかもおつりがくる。
秋山立花全員のお腹とお財布を守ってくれる、心強い味方だ。

メニューが豊富だから、毎日通っても飽きることはない。
ちょくちょく顔を出すものだから、
お店のおばちゃんとたまに世間話をするようになった。

「今日も暑いねー」とか
「事務所、あそこの部屋でしょ?外から見ても分かるわよ」などなど。

お腹も満たされるけれど、心も満たされる。

その隣にはこれまたこじんまりとした和菓子屋さんがある。
1週間に1度くらいの間隔で、梅大福を買いにいく。
程よい酸味、程よい塩っけ、程よい甘さ。
いつもいつも2つにしようか1つでやめておこうか迷うのだけれど、
いつもいつも1つで我慢している。

先週も例のごとく梅大福を買い求めたら、
「これ、おまけでつけとくね」と豆大福をくれた。

右手に梅大福、左手に豆大福。
口の中も、心の中もほくほくになったのは言うまでもない。

本当に素朴で、地元の人しか知らないようなお店だけれど、
「あそこはちょいちょい通ってる贔屓の店でね」みたいな感じで、
長くつきあっていけるお店があることは、
人生にほんの少しだけ、彩りを与えてくれる。

そんなお店では、
物の売り買いだけではなく、心のやりとりがしっかりと根付いている。
秋山立花も見習わなければいけない。

秋分を間近に控え、吹く風もたいそう涼しくなってまいりました。
ひそやかに流れてくるこんな風のことを「秋の声」というのでしょうか。

さて、今日は敬老の日ですね。
夕方からお休みをとって、祖父母に挨拶をしにいこうと思います。

敬老の日だからというのではなく、
日々、思いやりの心を持って接することが大事ではありますが、
何かをするには良いきっかけですね。

人生の経験豊かな方々を敬う日。
敬老という言葉があるということは、
昔から日本にその精神が息づいていたと言うこと。
人を敬う心をしっかりと受け継ぎ、育てていかなくてはなりませんね。

ゆっくりと腰をすえて、
祖父母の声と秋の声に耳を傾ける。
そんな一日を過ごすことができたなら、乙なのではないでしょうか。

日本語は難しいと、ふと思う事がある。

例えば「いい加減」や「適当」の意味って正確にはなんだろう。

いい加減なやつ
適当なやつ
という使い方だとかなりマイナスのイメージになる。
こういうことを人から言われたら、ちょっと傷つくに違いない。

しかし、
いい加減は「好い加減」で加減がちょうどいいという意味もある。
適当も適度にとかほどよいとか、プラスの意味もある。

そう思うと
「いい加減なやつ」
と言われると、なんだか褒められたような気もしなくもない。
「適当なやつだな」
と言われると、ほどよい感じの人と言われたようで悪い気はしない。

なんだか、いい加減も適当も、だいぶいい加減で適当な言葉たちだなと思う。

こういう、なにかちょっとひっかかるなと感じたとき、
秋山家ではまっさきに広辞苑を開くことになる。
幼少のころより「なんで」「どうして」というと、
無言で広辞苑を指さされたものだ。

そのせいか秋山家には広辞苑が3冊もある。

そもそも母方の祖父は母がこどものころに、
広辞苑を読んで感想文を書きなさいと宿題をだしたことがあるそうだ。
いったいぜんたい広辞苑を読んでどんな感想文を書けば良いのか、
非常に悩ましい難題である。

こんなことを言う祖父も祖父だが、しっかりと感想文を書いたらしい母も母だ。
楽しそうなので僕も将来こどもができたら、言ってみたいなとひそかに考えている。

そんな母だが、僕への育児の方針はいい加減と適当だったらしい。
おかげさまで自由気ままに育ったあげく、
自分の事は自分でやらなくては気が済まない、非常にマイペースな人間となり、
親の忠告も全く聴かずに薄給な設計事務所にいき、あまつさえ勝手に独立してしまった。

閑話休題

さて、広辞苑でいい加減と適当を調べてみると次のようになる。

「好い加減」
1、よい程合い。適当。
2、条理を尽くさぬこと。徹底せぬこと。
3、(副詞的に用いて)相当。だいぶ。かなり。

「適当」
1、或る状態や目的などに、ほどよくあてはまること。
2、要領よくやること。いい加減。

結局どちらとも良い意味でも悪い意味でも受け取れる。
「ほどよい」と「徹底しない」というのは紙一重ということなんだろうか。
分かったような分からないような不思議な感じである。

普段使っている言葉と、その言葉の本当の意味の間にある、
ちょっとしたギャップというのは本当に難しいなと実感する。

でもそういう日本語の難しい一面も、僕は大好きなのだけれども。