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秋山立花の平成22年度版事務所小冊子ができました。

秋山立花が仕事をする上で大事にしていることを
11個の言葉にして、写真とともに掲載しています。

ご興味のある方にはご郵送させていただきますので、
その旨、事務所までお問い合わせください。
代金、送料とも無料です。

 

表紙
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中身
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2010年8月25日 22時00分

Jounalistの後藤健二さん
Visualistの高津央さん
のおふたりによる「ジャーナリズム×アート」のユニット chord
そして chord による message art exhibition [eye s] のことを知った。

これまでに後藤さんが世界各地の戦渦をおさめてきた映像を
高津さんがアート作品として表現する、お二人の協働作品展。

その夜、後藤さんとプロデューサーの藤野秀樹さんのお話に耳を傾けながら、
これは絶対に足を運ばなければならないと思った。

報道される遠国の悲惨な現実。
それを見聞きしたときに感じる「なんとかしなくてはならない」という気持ちと、
同時に沸き起こる「かといって何ができるというわけでもない」という気持ち。

それは確かに「今まさに起こっている現実」なのに、現実感を感じない自分。
自分のやるべき事は自分の身の回りの現実に対処することであり、
遠国のことは対岸の火事で、煙さえも届くことはないと思う自分。

ただ、本当にそうなのだろうかという警鐘がどこかで鳴り響いている。
その鐘の音を僕は確かに聞く事ができる。
強風が吹けばかき消されてしまうほどのそのかすかな鐘の音は、
僕に何を伝えようとしているのか。
その答えがもしかしたらあるのかもしれない。
そんな期待感が僕の心を満たしていた。

2010年8月29日 13時50分

期間の最終日になってしまったが、[eye s]に足を運ぶことができた。

三軒茶屋の駅から外にでると、暑さと排気ガスと湿気が一度に襲ってくる。
上空に伸びる高架道路を僕はどうしても好きになれない。
一刻も早く排気ガスの中心から遠ざかりたかったけれど、
暑さが暑さなだけにゆっくりと歩く。

三宿の交差点を右に折れ、交番まで歩き、左折する。
右手に草野球、左手に少年野球を眺めながら200mほど進む。
スローカーブを見事に捉えた4番バッターがセカンドベースに到達したころ、
僕も会場となる世田谷ものづくり学校に到達した。

記帳をして入場し、廊下を歩いていたところで後藤さんとお会いした。
会場となる部屋の入口では、高津さんにご挨拶をさせていただき、
持参していた[eye s]の図録「chord book」におふたりのサインをいただいた。

後藤さんの「ゆっくりと見ていってください」という言葉に、
しっかりと目に焼き付けていこうという気持ちが自然と高まった。

一通り一巡してから、
高津さんの解説付きでもう一巡する。
そしてさらに一巡。

最後に後藤さんとお話をさせていただいた。

記帳台の近くで藤野さんにもご挨拶することができ、僕は会場を後にした。

2010年8月30日 14時00分

そして一日が経過した今日。
昨日の体験から思った事を書こうと思う。
僕のつたない文章力で、どこまで伝えることができるかは分からないけれど、
できるだけ素直に言葉を並べていきたい。

後藤さんの報道映像には、まぎれもない事実として「今」が記録されている。
そこからは「今」をありのままに受け取ることができる。

人間は誰しも「想像力」という翼を心の中に持っている。
高津さんの作品はその心の中の翼を広げ、羽ばたかせる力を持っている。

だから、後藤さんの報道映像が高津さん手によってアート作品になったとき、
それはありのままの「今」ではないのだけれど、
より強く「今」を想像せずにはいられないものとなる。

このことは純米吟醸酒にとても良く似ていると思う。
米を丁寧に時間をかけて磨き上げる。
米こうじ、水が加わることによって、
元の米という固体から酒という液体に変化をとげる。
完成した純米吟醸酒は米そのものではないけれど、
口に含むと固体の米を食べる以上に、
米への想像力がわき上がってくる。といったような。

ここに描かれた少女はどこで「今」を過ごしているのだろう。
ここに描かれた少年はどんな「今」を過ごしているのだろう。
彼らの「今」はどんな悲劇に見舞われているのだろう。
彼らの「今」にどんな希望が訪れるのだろう。

報道映像は鮮明に「今」を示してくれる。
その一方で、鮮明であるが故にそれを超える想像力を発揮することが難しい。
けれどアート作品となることで、想像力は翼を広げ空中を飛行する。
見る人が自分なりに「考える」ということを助けてくれる。

そのおかげで、僕の心は世田谷区にいながら
チェチェンにも、
ソマリアにも、
エストニアにも、
アフガニスタンにもいくことができた。
現実ではないのだけれど、現実感のある物語を読むように。
僕はその会場で、僕なりの彼らの「今」を感じることができた。

[eye s]とは僕らを彼らの元に案内してくれる「どこでもドア」なのだ。

2010年8月30日 15時00分

さりとて、彼らの「今」を変える力は、今の僕にはない。
ただ、彼らの「今」を知ろうとする事、彼らの「今」を考える事ならできる。

物事は全てそうだけど、自分にできることからすこしずつやるしかない。
一足飛びに世界を変える事はできない。

僕はこの文章を Michael Jackson の「Man In The Mirror」を聴きながら書いている。
鏡の中に映る僕は、変わる事ができるだろうか。

今の僕には僕が何をできるのかは分からないけれど、
建築を通して、この先何ができるのかを考えていきたい。

最後に「chord book」に書かれている一文を紹介したい。

「無念」と「孤独」に覆い尽くされた
ジャーナリストが見つめた現実の絵巻物
暗闇の中の消え入りそうな
しかし、鮮やかな希望

この絵巻物を見る事を恐れないで欲しい
そしてあなた自身の物語にこれらの出来事を少し、描き足して欲しい
僕たちは微力だけれども無力ではないと信じて

今日から二十四節気でいうところの処暑ですね。
「陽気とどまりて、初めて退きやまんとすれば也」とあるけれど、
とどまるところを知らない陽気が続いています。
今年は蜻蛉をあまり見かけないことも、この暑さが原因なのか。

さて、そんな暑さのさなか、
7月から現場監理に入っていた物件が無事上棟しました。

僕は上棟式がとても大好きです。

上棟式と言っても、お餅をまいたり、宴会を開いたりすることは稀で、
昨今は簡素化した式が多いですが、それでもこの日は特別です。

棟梁を始め職人さんや僕らから、お施主さまに「おめでとうございます」
お施主さまからは「ありがとうございます」「これからもよろしくお願いします」
みんなが笑顔で、みんながお祝いや感謝の言葉を口にします。

「ありがとう」「おめでとう」
という言葉は、本当に良い言葉ですね。
聞いているだけでも、心が温かくなってきます。

人間関係の希薄化が叫ばれて久しいですが、
上棟式がある度に、
まだまだ捨てたものじゃない、
まだまだ大丈夫、との思いを強くします。

家を一軒建てるだけでも、そこには多くの人間が関わります。
全員が自分の持ち場でプロの仕事をきっちりする、というのはもちろんですが、
どれだけ良い人間関係を築くことができるかということも大切です。

その時に重要な位置を占めるのが、この上棟式だと思っています。
式に出席しているみんなが「おめでとう」「ありがとう」と声をかけ合い、
より良い建物になるために一致団結できるのです。

上棟式はこれからも大事にしていきたい、
大切な日本の文化のひとつです。

お墓を奇麗にして、
手を合わせて先祖と向き合う。

ご先祖さまに感謝をし、今の自分を報告する。

お墓参りの時には、人は嘘をつけない。
なんでもかんでも、ご先祖さまにはお見通しである。

お墓参りとは、
先祖を大切にするということでもあるし、
自分と向き合うということでもあると思う。

自分は今、
先祖に恥じないように生きているだろうか。
自分は今、
一生懸命に生きているだろうか。

お墓参りが教えてくれる事は本当に多い。

僕は毎週1回はジムに通って汗を流すようにしている。
本当はもう少し回数を増やしたいのだけれど、
無理なく継続できるペースは今のところ、週に1回だ。

このブログもそうだけれど、
とにかくまずは週に1回と決めて、
継続していくことに慣れることが、まずは肝心だと思う。

焦らずじっくりと自分のペースをつくっていく。
僕は割とそういうことが得意な人間かもしれない。

さて、話がちょっとずれてしまったけれど、ジムの話です。

僕は決まって、
ジムに行くとストレッチ、ウェイトトレー二ング、ランニングマシーン。
という順番でこなしていくことにしている。

ストレッチとウェイトトレー二ングは高校野球をしていた時に経験があるので、
だいたいその頃のメニューと同じことをやる。

ただ、17歳の頃に持っていた瞬発力はこの12年間で儚く萎んでいたので、
ショックを受けながらも、軽めの負荷で筋肉をいじめていく。

40分ほどでウェイトトレーニングまで終えると、
あとは50分間、黙々とランニングマシーンをつかって走る。

体調の好不調もあるけれど、
だいたいいつも決まったペースで、決まった距離を走っている。

それが先日、なぜかいつもよりも体の動きが軽いことに気づいた。
いつものペースが遅く感じられ、足の回転もいつになく力強い。

試しにペースをあげて走ってみてもまったく苦にならず、
気づいてみたら今まで見たことのない距離を走っていた。

こつこつと走っていたことで、
どうやらしっかりと体力がついていたらしい。
これは僕にとって、嬉しい驚きだった。

他の人からすれば本当にどうでもよくて、
自分自身しか喜ぶことのないような出来事なのだけれど、
こういった少しの進歩を実感することができるというのは、
人生における確かな喜びだと思う。