建築の設計

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嬬恋の別荘 G-Spiral

  • 令和6年
  • 群馬県嬬恋村
  • 写真:東涌 宏和

「本当に簡単。壁を抜けたらすぐこっちに来られるわよ」(村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」)

こちらの世界とは異なるそちらの世界。同じようでいて、違う世界。

偶発的であれ、意図的であれ、時に人はその境界を跨いでしまうことがある。日常的には決して混じり合うことがない世界が、ふとした瞬間に近づき、触れ合い、その境界が曖昧になることによって。

そうした現象が出現するためには一定の条件が必要になる。そして、いわば舞台装置のようなものが必要だ。それは暗く湿った井戸の底であったり、あるいは形而上的な壁であったりする。

タイミングや状況など複数の要因が揃った時、その場所は意味を帯び、異なる世界を橋渡しする役割を与えられ、そこに訪れた人を導く。そして否応なく、異なる世界へ足を踏み入れることになる。

私たちが目指したのは、井戸であり壁である。

こちらの世界とそちらの世界が交差し、その境界を超えるための舞台装置。

別荘というと、日常と非日常という対比が行われることが多いが、日常と非日常という言葉以上に、何かが決定的に違うもの。成り立ちであったり立ち振る舞いであったり、その世界を構成する要素が異なるようなもの。そうした世界観を現出させたい。

この別荘は浅間山の麓に存在する。

バブル時代に大規模に開発された別荘地の一角。

おそらく、30年前の夏にはこぞって人々があつまり、そこらじゅうでバーベキューの煙が立ち、テニスに興じる若い男女がいたことだろう。

しかし、経済の低迷とともに別荘は華やかさと豊かの象徴から面倒なものの象徴へと変わり、ここを訪れる人々は減り、記憶からも消えつつあった。

テニスコートのネットはところどころ黄ばみ、破れ、垂れ下がり、道路のアスファルトは植物の侵食で不可逆的に変形している。誰も訪れることがなくなった、いくつかの別荘は時の流れに任せて朽ち、崩れ始めている。

盛夏の時期でも人々の声は聞こえず、鳥の鳴き声が遠くから響くばかり。

深い井戸の底に降りるには、あるいは壁を抜けるためには、この地を支配している静寂はかえって好都合のように感じた。

この建物–あるいは舞台装置−は浅間石に覆われた大地に建つ。

浅間山の噴火によって堆積した浅間石。その力強い自然の活動によって産まれた景色を再生させる。別荘というと木々に囲まれているイメージが強く想起されるかもしれない。それこそが「自然」であると。しかし、自然は多様であり、火山活動によって木々が消失し、火成岩に覆われた状況もまた、自然である。

そこに、火山活動によって森が焼かれ、生き延びた木々が炭化し佇んでいる様を現すように小屋を建てる。

小屋にはふたつの空間があり、線対象に存在している。
同じ大きさであり、同じ高さであり、同じ構造を持つ。

一方の空間は床一面に絨毯がひかれている。そのほかには何もない、機能もない、いわば虚空である。
もう一方の空間は下へ下へと降りていく井戸のように風呂が掘られている。
同じであると同時に、異なっている。こちらの世界とそちらの世界。

ここに訪れた人はこちらの世界とそちらの世界を行き来きするように、虚空の空間と風呂の空間を行き来しながら過ごすことになる。

井戸に潜っていくように、風呂の底に身を潜め、ひたすら瞑目する。
なにもない虚空に身を置き、名前のつかない時間を過ごす。

「本当に簡単。壁を抜けたらすぐこっちに来られるわよ」